欧米500年の世界植民地支配の歴史と日本の存在の意義
――500年の歴史の流れを逆転させた日本――
これまで概説した欧米500年の世界植民地支配の歴史を、ここでは、以下、3点の特徴にまとめてた。
(1)世界的「悲劇の連鎖反応」を引き起こした欧米植民地支配
(1) | 第1点は、欧米500年の植民地支配は、世界的「悲劇の連鎖反応」を引き起こしたという点である。 |
(2) |
これまでの人類の長い歴史のなかにも勿論(もちろん)、民族と民族の様々な対立抗争があり、
そこに深刻な悲劇が展開されてきたことはいうまでもない。 広範にわたったものはなかったであろう。 |
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そもそもこの悲劇が起こった発端は、
スペイン・ポルトガルが、アジアの物産の獲得のために世界に進出したところにあった。 |
(4) |
このようにして始まった欧米植民地支配は、南北米大陸、アジア、アフリカなど それぞれの地域において展開し、互いに密接な関係をもって連動していった。 |
(5) |
米大陸において原住民が、スペイン・ポルトガルの侵略によって奴隷化され虐殺された。 その結果、労働力が激減すると、アフリカの黒人が、米大陸の奴隷として狩り出された。 |
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北米大陸が英仏によって植民地支配されると、オランダは北米大陸を断念し、 アジアとりわけインドネシアへの進出に主力を注ぎ、そこに数百年にわたるインドネシアの悲劇が生まれた。 |
(7) |
北米大陸、インドにおいてイギリスが植民地を独占すると、産業資本の蓄積によって産業革命が起こり、 イギリスの植民地支配に一層拍車が掛けられた。 |
(8) |
この産業革命という技術革新による大量生産の出現は、より大量の、より新しい、 より良質の物産資源の獲得欲を生み出し、その生産地である植民地の獲得欲を異常に増大させていった。 |
(9) | ここに至って欧米植民地支配は、これまでにない勢いで、より急速に、より広範に展開し始めた。 |
(10) |
イギリスはこの産業革命の勢いによってインド全域を支配すると共に東南アジア、中国、オーストラリア、 オセアニアなどへの進出を強化していった。 すなわち、イギリスの産業革命は、アジア全域の悲劇へと発展していったのである。 |
(11) |
そしてこのアジア全域に及ぶ進出と支配は、結果的にイギリスの空前の経済発展を生み出し、
それが他のヨーロッパ諸国を大いに刺激し、ヨーロッパ産業革命を起こした。 すなわちヨーロッパ産業革命はアフリカの悲劇をもたらした。 |
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このようにして物産資源の獲得のためには、ときには手段を選ばない非人道的な方法さえ取って、 原住民の有色民族を抑圧し支配し、或いは死滅から追い込んだ。 |
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このような非人道的行為は、東洋人から見れば、およそキリスト教精神とは思えないものであったが、 見境のない物産資源の獲得のためには、 それが、ときにはキリスト教の教義によって正当化されることもしばしばであった。 |
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欧米ではアメリカ独立戦争やフランス革命に象徴されるようにキリスト教の精神に基づいて 自由、平等、博愛といった理想主義が高く掲げられ、 それが欧米の近代国家を形作って来た側面は否めない。 |
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しかし、その一方で自分たちを繁栄させる物産資源の獲得のためには、 原住民の有色人種を犠牲にしても顧みることがなかったという影の側面があったことも否めない。 |
(16) |
彼らの理想主義はあくまでも欧米社会の中での理想主義であって、 彼らが植民地支配するところの有色民族に適用されるということは決してなかったのである。 |
(17) |
かくして彼らの理想主義と物産資源獲得との2つの要因によって
世界的広範囲の植民地の拡張と争奪戦が展開された。 この500年の歴史は、その意味でかつてなかった世界史的悲劇としてとらえられるべきである。 |
(2)2つの世界大戦を引き起こした欧米植民地支配
第1次世界大戦における
ソンムの大激戦
1916年7月15日イギリス軍は
「悪魔の森」で
ドイツ軍と死闘を展開した。
(1) |
第2点は、欧米社会そのものが、自分達の繁栄のためには 原住民の有色人種を犠牲にしても顧みることのない、所謂(いわゆる)「植民地主義」が 台大前提となっていたために、世界各地における植民地争奪戦は、 ますます激化し収拾のつかないものになっていき、そのことによって、 ついに人類が一度も経験したことのなかった地獄絵図を見るごとき恐るべき 2つの世界大戦を引き起こしてしまったという点である。 |
(2) |
第1次世界大戦が引き起こされた過程をここで少し振り返ってみると、 まずヨーロッパ産業革命の勃興によってアフリカにおける植民地争奪戦が激化し、 19世紀末から20世紀初頭にかけてアフリカが一気に植民地支配された。 |
(3) |
それに並行して、亡国寸前にあったオスマン=トルコの利権を求めて、 諸勢力が中近東及びバルカン半島の地域に介入していた。 そして、アフリカにおける植民地状況が飽和点に達し固定化されるのを機に、
この地域における諸勢力の対立が一気に深刻化していった。 いわばアフリカの植民地争奪戦の対立がこの地域に持ち込まれる形勢となったのである。 |
(4) |
さらに日露戦争に敗北し、この地域に主力転換したロシアが、 この対立構造に加わることによって、その対立は一層深刻化し、 ここに第1次世界大戦の原因が胚胎(はいたい)した。 |
(5) |
第1次大戦後、パリ講和会議でドイツは、徹底的におとしめられたが、 それが結果的にドイツに激しい復讐心を植付けることになり、
第2次世界大戦のヨーロッパ戦の大きな要因となった。 |
(6) |
一方、第2次世界大戦とりわけ大東亜戦争の場合は、 第1次世界大戦後、中近東・中央アジア及び東欧の独立によって、 全世界の中で新たな植民地支配の可能性のあった地域が
中国大陸だけになったところに大きな原因があった。 イギリスにとっては中近東の独立は大きな痛手であり、
それだけに、残された中国大陸への執着はより強くなった。 中国大陸の共産化に主力を注ぐこととなった。 アメリカも、西部開拓以来、中南米、太平洋・極東地域への独自の勢力圏確保を推し進めていき、 その戦略の行き着くところは、やはり中国大陸であった。 フランスもインドシナを拠点に中国大陸における勢力圏を拡張しようとした。 |
(7) |
このようにして列強は、世界最大の人口を誇り、世界最大の市場となる可能性のあった 中国大陸に殺到していく事になった。 これがすなわち大東亜戦争の大きな原因であった。 |
(8) |
このように当時の世界の植民地状況と関連させて世界の動きを見てくると、 今世紀の2つの世界大戦は、もはや不可避的なものになっていたということが言えるであろう。 |
(9) |
新たな植民地支配の可能な未開の地域が、広大に残っている時代は、
ある国がある特定の地域を植民地支配しても、他の国は別の地域を植民地支配することが出来た。 植民地支配をする国者同士の対立もある程度解消させることが出来た (もちろん、原住民が大きな犠牲になるという悲劇は依然続いていることは言うまでもないが)。 |
(10) |
しかし、南北米大陸、インド、東南アジア、オーストリア大陸、オセアニア、アフリカと世界の大半が、 次々と欧米の植民地支配に食いつぶされて、 新たな植民地支配の可能性のある地域が限定されるに至って、
そのような対立を解消する「住み分け」は難しくなっていった。 自国の経済発展のために植民地を一層必要とするようになったので、 限定された地域において多くの国が殺到することとなり、 それだけに、各国の植民地支配に対する執着は一層強くなり、 各国間の対立は一層深刻化し複雑化し不可避的なものになっていったといえる。 |
(11) |
その意味で2つの世界大戦は、世界の植民地支配状況が飽和点に達して行く中で 言わば数百年にわたる 欧米植民地支配の最終段階として不可避的に起こった戦争であったと言えるのである。 |
(3)欧米の植民地支配に抵抗し得る世界で唯一の存在であった日本
植民地を受けず植民地をしなかった国
(1) |
ここで、改めてコロンブスの新大陸発見以来の世界の植民地状況を見てみたい(地図参照)(補足表)。 植民地支配を受けなかった国は、アジアでは日本、タイ、ネパールの3ヶ国、アフリカではエチオピアの1ヵ国、 ヨーロッパではイギリス、フランス、ロシア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、イタリア、オーストリア、デンマーク、 スイスの10ヵ国、合計14ヵ国だけである。 |
(2) |
植民地支配を受けなかった14ヵ国の内、植民地支配を自ら行った国は、 イギリス、フランス、ロシア、スペイン、ポルトガル、ドイツ、イタリア、オーストリア、デンマークの9ヵ国である。 |
(3) |
植民地支配を受けなかった14ヵ国の内、植民地支配をしなかった国、すなわち植民地支配を受けず、 かつ植民地支配をしなかった国は、日本、タイ、ネパール、エチオピア、スイスのわずかに5ヵ国だけである。 |
(4) |
なお、日本の台湾、朝鮮統治については欧米の植民地支配と同じ「植民地」という言葉で
ひとくくりにして論じられるべきものではない。 ここでは、日本は植民地を持った国の部類にはは入れないという立場を明らかにするのみとした。 |
(5) |
さて、ここで植民地支配を受けず、かつ植民地支配しなかった国の実情を少し概観してみると、 タイは大東亜戦争までは東西からフランス、イギリスの侵食を受け、
両者のいわば緩衝地帯として辛うじて独立が承認され、保っていた状態であった。 辛うじて独立を保っている状態であった。イギリスにその独立が承認されたのは 第1次世界大戦後の1923年であったが、
それはイギリスに積極的な戦争協力した見返りとして承認されたものであった。 これをすべて跳ね返したが、第1次世界大戦後1936年より一時イタリアに占領されるところとなった。 第2次世界大戦中にイギリスの支援を受けて独立を回復したものの、第2次世界大戦後は、 アフリカにおける共産化の波を受け、1975年ついに帝政が廃止され、 世界最古の王制が滅ぼされるという悲劇的運命を辿ることとなった。 |
(6) |
スイスは1291年の建国以来、長きにわたって周辺諸国からの度重なる侵入を受け続け、 周辺諸国の承認によって正式の独立国として認められたのは、実に建国より 350年以上も経った1648年のウエストファリア条約のことであり、さらに永世中立が認められたのは、 それから160年以上経った1815年のウィーン会議のことであった。 |
(7) |
このように列国の承認が得られるに至った要因の1つには、 スイスの周辺諸国がフランス、ドイツ、イタリア、オーストリアという、 まさに植民地支配を推進してきた国々であり、 その意味でスイスはこれら列強の緩衝地帯に位置していたということである。このような立地条件を考えれば、 スイスの独立は極めて特殊な事例でもある。 |
(8) |
このようにみてくると日本以外の植民地支配を受けず、かつ植民地支配をしていない国は、 欧米植民地支配からの相当の侵食を受けながら、列国の緩衝地帯として、 まさに受け身的姿勢で辛うじてその独立を守って来た国であったのである。 |
全世界に欧米植民地支配への反転攻勢の戦いを引き起こした大東亜戦争
(1) |
それでは日本の場合はどうであろうか。まず日本が国際社会に参入したのは 明治維新からであるが、 この明治維新の時期は、アジアのほとんどの国が欧米の植民地支配に
飲み込まれつつあった時代である(地図参照)。 欧米植民地支配の圧力からいかにして日本の独立を保持し得るかという 非常な危機意識から断行され、欧米に対抗し得るだけの国家体制を迅速に整えていったのである。 |
(2) |
その後の日清(明治27~28年、1894~95)・日露(明治37~38年、1904~05)の 2つの大戦の時代は、アジア、アフリカが完全に欧米植民地支配に 飲み込まれていった時代であり、
まさに数百年にわたって積み重ねられてきた欧米植民地支配の最終段階に達した時代であった。
中国大陸、朝鮮半島に集中しつつあった時代である。 近隣諸国、極東アジアの安定と平和が必要不可欠であった。 なぜなら、この近隣諸国が、欧米植民地支配下に収まれば、 たちまち日本の独立は危うい状況に陥ったからである。 |
(3) |
このように考えてくると、日本は明治維新から一貫して自存自衛の戦いと
欧米植民地支配に対する反転攻勢との戦いとを一体的に続けて来たと言える。 欧米植民地支配の最終段階にあって欧米植民地支配の波が、 運命的に中国大陸、朝鮮半島、日本に局所的に集中してくることによって、 まさに局所的な日本の自存自衛の戦いが、単なる局所の戦いに終わるのではなく、
全世界を席巻した欧米植民地支配に対する反転攻勢の戦いに昇華されていったと言える。 日本がアジア・アフリカでただ1国、運命的に我が身にに引き受けることによって、 局所的運命的な日本の自存自衛の戦を、まさに世界史的使命を帯びた、 欧米500年の世界植民地支配に対する反転攻勢の戦いに昇華せしめていったのである。 |
(4) |
ここに日本の日露戦争が、日本の予想を越えて、欧米植民地支配下、影響下にあった中近東、 中央アジア、東南アジア、東欧、北欧の諸民族に多大な勇気を与え、 自主・独立の気運を醸成させた所以があり、 また、昭和の初期から始まった中国大陸における日本の権益を巡っての自存自衛の戦いが、 大東亜戦争に至るにあたって一気にアジアにおける独立解放の全面展開の戦いに 展開していった所以があるのである。 |
(5) |
ここで改めて戦後の独立状況を示した地図9を参照して頂きたい。 東南アジアからアジア、アフリカの全域に及び、 さらにアジア系・アフリカ系の住民の比較的多い一部の中南米の地域に及び、
最近ではソ連の崩壊によって旧ソ連地域に及んで、全世界の諸民族が独立するに至った。 確実に全世界に広がり再現されていったといえるのである。 |
(6) |
このようにみてくると日本が国家の命運を掛けて戦い続けて来た明治維新、 日清・日露、大東亜戦争は、明らかに、これまでの欧米植民地支配によって
形作られて来た世界史の流れを大きく変えるものであった。 行き着く所まで行った欧米の世界植民地支配の野望の野望を、ものの見事に挫き、 それを大きく後退させた点で、実に計り知れない世界史的意義を有していたのである。 |